恐れを超えて
光の方向へ進む

最近の私は、
周囲からどう見られているのだろうか、
そんなことをふと考える。
少し前までの私なら、
その問いはすぐに自己評価へと変わっていた。
ちゃんとしているだろうか。
期待に応えられているだろうか。
"正しい大人"を、ちゃんと演じられているだろうか。
そして最後には、
こんな自分じゃダメだ、と
静かに、でも確実に自己否定へと沈んでいく。
私は今まで、
心理学とかも色々と学んできた。
一貫性とかインテグリティとか
在り方が大事だとか
未来から時は流れているからまずはゴールを決めろ、とか。
言葉にすれば、どれも美しい概念だった。
人から信頼される私であること。
人から求められる私であること。
人の期待に応える私であること。
それこそが"成熟"なのだと、
どこかで信じてきた。
でも、
ある時ふっと、
その檻が音もなく崩れた。
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社会の中での私はどう在るべきか。
ちゃんとした人間とは何か。
正解の振る舞いとは何か。
もう、どうでもよくなった。
投げやりとは少し違う。
諦めとも違う。
ただ、
それらを握り続けるエネルギーが、
もう、残っていなかった。
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恐れから光へ進む一歩は、
誰かや環境への依存を手放すところから始まる。
この言葉は、
頭で理解したものじゃない。
体が、先に知ってしまった感覚だ。
私たちは気づかないうちに、
「安心」を外側に預けて生きている。
誰かがそばにいてくれるから大丈夫。
この仕事があるから安心。
この場所に属しているから。
この肩書きがあるから。
この人間関係があるから。
私は、私でいられる。
そんなのは関係ないと分かっていながら
結局そう信じていたんだ。
みんながやっているのだから。
そういうものだから。
犠牲を払わないと、前には進めないから。
昔、よく息子には、
「Be patient」と言っていた。
今は絶対に言わないけど。
我慢が美徳だ。
疑う余地もなく、
その世界に自分や他者を当てはめてきた。
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例えば、
依存を手放す、と聞くと、
強くならなければいけない気がする。
誰にも頼らず、
一人で立ち、
何にも揺らがない自分になること。
でも実際に起きたのは、
その真逆だった。
弱くなった。
脆くなった。
何も守れなくなった。
それなのに、
なぜか、
少しずつ呼吸が深くなっていった。
守らなくていい。
証明しなくていい。
説明しなくていい。
そう思えた瞬間、
体の奥で、何かがほどけた。
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光、というと派手だけれど、
実際はもっと静かだ。
誰にも見えない場所で、
ただ、体温が戻ってくるような感覚。
光は、
どこか遠くにあるものじゃなかった。
誰かが与えてくれるものでも、
努力のご褒美でも、
悟った人だけが辿り着ける場所でもない。
それは、
ずっと内側にあった。
ただ、
恐れの層、
思い込みの層、
「こうしなければ」という層に覆われて、
触れられなかっただけ。
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本当はどう感じているのか。
本当は何が嫌なのか。
本当は何に心が動くのか。
その声は、
とても小さく、
とても正直で、
社会にはあまり役に立たない。
でも、
確実に、生きている。
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挑戦しない限り、
今の不安を超えることはできない。
「コンフォートゾーンの外へ」
これは、
前向きなスローガンではない。
挑戦とは、
何かを成し遂げることじゃない。
自分の感覚を、
もう一度信じて進むこと。
怖くても、怖いまま。
不安なまま、
それでも一歩。
本当に在りたかった自分に、
近づいていくこと。
これを見極めるのには、
エゴがずっと邪魔して
かなり内観が必要だ。
でも、そのエゴも一緒に連れて行けばいい。
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恐れは、消えない。
これからも、何度も現れる。
でも、
恐れに人生を明け渡さない
と決めること。
社会の正解から少し外れても、
評価が曖昧でも、
理解されなくても。
私は、
私の感覚に戻れる。
それが分かった今、
もう以前の自分には戻れない。
恐れを超えるとは、
強くなることじゃない。
自分に嘘をつかなくなること。
その先にある光は、
静かで、
確かで、
誰にも奪えないもの。